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東北空手道場【宮城県仙台市】

以下の文は、保育士養成校 神戸こども総合専門学院の講師をされていた 山田 利行さんが書いてくださったモノです。

山田さんには道場開始当初から、子供との向き合い方などいろいろとご指導をいただいています。

その山田さんが合宿に参加されて感じたこと、考えたことを送っていただきました。

許可をいただきましたので、当HPに掲載させていただきます。

お読みいただければ幸いです。

夏合宿と「体験」の意義

 

 朝6時の砂浜には、海鳥の足跡が刻印されたようにくっきりとあった。道着に身をかためた子どもらは波打ち際を視野にとどめ波音に近づいた。月浜海岸の砂はとてもきめ細かく黒い斑点が交じり、今度は子どもたちの足跡を残してくれた。朝はゆっくり歩けたけれど、足裏の記憶は日中の日射しで消されてしまった。「アツッ! アツッ!」とのんびり歩いてはおれなかった。

 渚に足を踏み入れると冷たくて心地よい(朝の砂はまだ熱く焼けていなかった)。でも、裾が濡れる。すでに濡れているのに、道着をつまんで引きあげようともしている。「あとでこうして座るから気にしなくていいよ」と先生が座って実演してみた。空手は素人なので(わたしは)体験をこんなふうにしか表現できないけれど、わずかな時間で子どもらは次から次へと体験を重ねていく。目にした景色や印象から、からだが直接に感じとる場面に吸い込まれていく。

 「体験」を子どもの成長と関連づけるとき、体験の中身を問わないで「体験」と名がつくことであればなんでも歓迎でよいのであろうか。学校での休み時間、放課後、休日など自由につかえる時間で消費される「遊び」は「なんでも歓迎」とわたしは考えている。危険回避の目的で制限や制約を求めることはあろう。制約などは子どもに指示するかたちで実施されるが、じつはおとな社会が子どもに課してしまった結果であることをどれほどのおとなが理解していることだろうか。道場の先生が発する指示は、制約に違いないが、制約条件に子ども自身の判断(主体性)を促している。「A、Bの約束です。A、Bが受け入れにくい人はCの方法もある」。つまり、体験は"与えられる"ものではなく、"獲得していく"ことに最重要の意義がある。

 この獲得していく過程は、3~5歳の幼児は極めて単純(素朴)でわかりすい。体験へ導くヒントを示すと「やりたい!」の声があがる。語らずとも動作はすでに始まらんとしている。渚に足をつけた瞬間、初めて波が足をさわった瞬間、言葉は出ない。さらなる感触を求めて半歩、一歩と進む。再び波が足をさわったとき、やっと言葉が出る。「つめたい!」 小学生には既知の体験だ。それでも、じつは言葉で発してない瞬間があるはずだ。幼児と異なるのは、次にする行為をほぼ同時に行う。

 渚でおもしろいのは、彼らは"順番"を待たない。全員が渚に向かって一直線になっている。他者(ともだち)の所作を参考にすることもない。自身のこころに向き合い、オーバーに言えば、自身との闘いの最中になる。「自分と向き合う」ことが「体験の意義」ということになる。言い換えれば、与えられるものではなく、獲得するものということは、自分と向き合うことが体験の神髄で、おとなはこれをどうサポートするかという課題になる。

 非日常の「体験」、日常の「遊び」、これらに加えて、学校などや道場の課題がある。「こども」とひとくくりにしないで、発達に応じた主体性が成立するとき、子どもの可能性は約束されるとわたしは信じている。